teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP13(1)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年12月19日(水)19時48分47秒
返信・引用 編集済
    旧東海道を更に東へ鳴海宿を目指して・・・      第一部 : 西部編

 
8月下旬 腰部の一部を圧迫骨折し、庇いながら日常生活、今度は両膝も痛め
併せて治療、3ヶ月を経てようやく軽いウオーキングが出来るまでに回復したが、
この間、次に予定していた「鳴海宿」について下調べを。・・・

 鳴海宿は1601年、東海道40番目の宿場町に指定された。
東西の常夜灯の間1.8Kmの町並みであり、天保14年には人口3643人
総家数847軒、本陣1、脇本陣2、旅籠68軒。

そして、文化8年(1811)鳴海宿は通称「扇屋の火事」という大火に見舞われ
作町の一部、根古屋町、本町南部の全域が焼失、戸数111戸が失われたと。

また 松尾芭蕉は鳴海の地に、四度も立ち寄り足を留め貞享4年(1687)11月に

   『星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥』
   『笠寺や もらぬ岩屋も 春の雨』

        有名な二句が発句されたと・・・

 11月下旬、晩秋の晴れた日にウオーキングを開始した。
市バスで天白橋を越えてその先で下車し、鳴海宿西の出入り口、丹下の常夜灯へ。
ここから街道を東へ、三皿の交差点を渡ると道筋に格子造りの大きな古民家があり
路面には、あの弥次さん、喜多さんが描かれており鳴海宿に入った事が伺えた。


  写真はクリックしますと拡大できます

http://

 
 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP13(2)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年12月19日(水)18時41分50秒
返信・引用 編集済
   この先に、江戸時代には名泉と言われ、酒造りに使われていたという「花井の井戸跡」を探し
狭い路地へ入ったが、尋ねる人の出会いもなく探し出せず残念・・・

 街道に戻り先に進むと如意寺があり、現在は境内の一部は幼稚園であった。

 このに如意寺は正徳2年(1712)幕府の命により如意寺に『時の鐘』を置き
鳴海宿に時を報じていたが、別名鳴海寺とも言われた。
八代将軍吉宗の倹約令によって、時の鐘は廃止になったと・・・

 次に本町交差点手前の本陣跡へ向かうことに。探しながら街道を歩くも分らず
見逃したと思い少し戻る事に、丁度通りかかった年配の女性に尋ねると、この辺一帯が
本陣跡地と教えて呉れた。その女性は私が近くに嫁に来た時は、まだ丸みを帯びた
屋根造りの本陣の建物が一部残っていたと・・・
 そして”史跡巡り頑張って下さい”と言葉を頂いたので、お礼の言葉を返す事に・・・

 民家が立ち並ぶ角地に、鳴海町のお祭り道具を保管する建物があり、その横の壁に
本陣跡の案内があった。内容は江戸時代の本陣規模は間口39m、奥行き51m
建坪235坪の広壮な建物であったと記されていた。

 本町交差点手前で、庭先にいた年配の男性に芭蕉堂の所在地を尋ねると、
左折し誓願寺境内にあり、誰でも入る事が出来ると。・・・立ち話の最中に彼は
昭和24年生まれの地下の人であると・。・・・そして有松、鳴海は絞りが盛んであったと
話したので、私も子供の頃、少し経験したと告げると、彼は絞りの日本手拭いをあげると
家の中に案内されたが、玄関口で受け取りお礼を言い別れた。

 土地勘のない所で、知らない人と出会い、触れあいであったが、これもウオーキング(路)
あれ・・これの妙味と受け止める事に。

 本町の信号を右折し十数年振りに鳴海駅に立ち寄る事にした。
扇川橋を渡ると、かっての木造駅舎の姿は無く高架の駅が目に入った。
2階建の改札口で駅員さんに鳴海のロードマップを頂き、次の目的地へ。・・・
?

http://

 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP13(3)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年12月19日(水)17時58分2秒
返信・引用 編集済
   芭蕉堂を目指し誓願寺へ・・・山門をくぐると境内の奥寄りにお堂があり
間口は、一間半の木造瓦葺きの土壁のお堂であった。

 安政5年(1855)の冬に建立され、堂の中には「翁堂」の扁額と「鴨」の
額が置かれていた。すぐ横、木立の中に芭蕉最古の供養塔があり
碧色の自然石に元禄七年(1694)十月十二日 没年と刻まれていた。

 更に歩みを進めると鳴海城跡地であった。

                      次回、鳴海宿東部編に続く
 今回は治療中の為、鳴海宿西部の街道を巡る軽めのウオーキングであった。

http://

 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP14(1)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年12月19日(水)17時14分34秒
返信・引用 編集済
     旧東海道、鳴海宿周辺の史跡を巡る・・・   第二部 : 東部編

 
本町にある誓願寺前の坂を上がると一帯は、元鳴海城の跡であり
広い道路が出来て、西に城跡公園、東に天神社(あまつかみしゃ)と分断されていた。

 室町時代、応永3年(1390)に当地にあった成海神社を移転し鳴海城が
築城された。当初は織田方の山口父子が城主であったが今川方に寝返り
後に今川方の岡部元信が城主となった。

 桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、城主の岡部元信が義元の首と交換に
当城を織田方に明け渡したと。・・・
天正18年(1590)に廃城となり、以後成海神社の御旅所として、天神社が
祀られたと。・・・

 天神社の境内には、鳴海城址の碑石や成海神社跡の石碑と併せて
当所にも芭蕉の句碑があり
   「杜若 われに発句の 思いあり」貞享2年4月4日と刻まれていた。

 余談ですが、今夏にテレビの人気番組「なんでも鑑定団」で芭蕉が発句した
 「おもしろき・・・」以下記憶にないが直筆の句が本物と判断され
何と・・・800万円と鑑定評価されている。・・・見られた方も

 次に近くの復元高札場へ向かう事に(平成21年11月に復元)
?

http://

 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP14(2)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年12月19日(水)16時50分32秒
返信・引用 編集済
   鳴海の高札場は江戸時代の正徳元年(1711)宿場の中央に
藩主の重要法令を周知する為に、人目に触れ易い目抜き通りの辻に
屋根付きの高札場が建てられ、札が掲示されたと。

 善照寺砦跡へ向う為に、天神社に戻り、手前を右折した。
私が鳴海宿のウオーキングに当り、最も訪れて見たい史跡である。
探し歩くと鳴海小学校の東南、小高い台地に砦公園があった。

 公園に名残の紅黄葉が散る中、砂場で若い母子が砂と戯れていた。
小学校高学年であろう二人の女の子がブランコに乗り、青空に向かって
身も心も高くゆらしていた・。

 織田信長出陣、桶狭間へ
 永禄二年(1559)今川方の猛将、岡部元信が守る鳴海城に備えて
善照寺砦は織田信長が築いた三砦(丹下砦、中島砦)の一つであると。
 元禄三年(1560)陰暦5月19日今川義元率いる本隊は沓掛城を発して
大高城に向かう途中、桶狭間で昼になり休息・・・

 対して信長は当日未明、騎馬六騎、雑兵200人で清州城を出発、午前8時頃
熱田神宮に到着し戦勝祈願の後、鳴海の善照寺砦に到着、総勢800人近くに
増えていたと。
昼食を摂り出発に当り、砦及び周辺に織田家を示す多くの幟(のぼり)旗を掲げ
本隊が駐留していると見せかける策を打ち出発。

 街道東の、中島砦を経由、後から駆けつけた兵士を含め総勢2000人近くであったと。
折りからの強風を伴う雨の中、軍勢を整え出発、山間部を経て桶狭間義元本陣の奇襲に及んだ。
この時、信長は27歳であったと。・・・

?

http://

 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP14(3)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年12月19日(水)16時11分41秒
返信・引用 編集済
   次に鳴海宿の東を示す「平部の常夜灯」へ歩みを進めることに。
文化三年(1806)旅人への目印、宿場内の安全、火災、厄除の為設置され
大きく華れいな常夜灯であり、東海道中でも有数なものと言われ、往時の面影を
しのぶ事が出来る。

 中島橋を目指し鳴海方面へ戻る事にした。東海道と手越川との間に砦跡があった。
中島砦は260名の武士が配置され規模は長さ144m、幅90mと言われ手越川と
扇川に挟まれた、天然の平地砦であったと。
 昭和二年に地元の人々が中島城跡碑を供養のため建立、現在は私有地の一角に
存在しているが、所有者のご厚意により自由に見学ができる、珍しい史跡である。

http://

 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP14(4)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年12月19日(水)14時44分53秒
返信・引用 編集済
   街道に戻り西に歩みを進めると、扇川に架かる中島橋に辿り着いた。
応永15年(1408)に南蛮国より象が献上され、東海道を通行した際、
中島橋は土橋で危険であった事が言い伝えとして残っており、この時が日本に
象が最初に来た時であると。・・・又江戸時代、享保3年長崎へ象が2頭来た折り、
翌年一頭が江戸へ通行したと。この時中島橋は木橋であり、問題は無かったと、
当時、初めて見る巨体の動物、象を見た人達はさぞ驚愕したであろうと思う。

 橋の袂(たもと)には瑞泉寺があり、1396年創建で「曇華峰」(どんげほう)
の雄大な字体のある山門は県指定文化財に。そして法営の裏に龍王堂があり、蛇に
まつわる伝説があると。・・・

最後に
 鳴海宿をウオーキングし歴史とその証、史跡の一部を垣間見る事が出来た。
 そして鳴海宿は寺院が大変多い所であった。
 又、俳聖 松尾芭蕉が深く係わった鳴海宿でもあった。


  追記: 足早に過る年の瀬、皆さん健康に留意され
           良きお年をお迎えください。

http://

 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP14

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年12月19日(水)13時27分39秒
返信・引用 編集済
    追加 写真

http://

 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-12(1)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年 5月22日(火)13時31分21秒
返信・引用 編集済
    春風を乗せて流る天白川、その橋を渡り旧東海道を東へ・・・第二部南部編

 新瑞橋から市バスで天白川橋の先、三王山手前で下車、今回のウオーキング開始である。
先回の東部編で訪れた、千句塚公園~伝治山へ、そして赤塚、新海池を経てから
鳴海方面に向かって歩くと、右側に成海(なるみ)神社が見えてきた。

 成海神社の社伝によると(要約)
  天武天皇の御代、朱鳥元年(688)創建された。・・・神剣、草薙剣が
  熱田社(熱田神宮)に遷座された時に、当地に鎮座されたと・・・
  又、当社は祭神の一人として、日本武尊が東征に出発し、縁由によって
  祀られていると・・・

  神社名は地名からと言われ、奈良平安時代文献には、すでに成海と表記されていると。
  境内地には13,200坪の拡大な敷地を有し、熱田神宮と同様歴史と由緒ある
  神社である。
  お参りをした後に、次の目的地に向かう事に。・・・


?

http://

 

こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-12(2)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年 5月22日(火)12時56分13秒
返信・引用 編集済
   南部編2

 南に向かって歩くと左手に名鉄自動車学校が見えてきた。当所は元鳴海球場であり
昭和2年5月工事が着手され、9月に完成して10月17日に開場式が行われたと・・・
総工費360,000円、面積12,000坪で当時の甲子園球場を凌ぐものであったようだ。
昭和11年2月9日に日本プロ野球の第一戦が巨人軍と金鯱軍(中日)との間で行われたと。
他に、各種催事に使用され、愛知の人たちに親しまれた球場であった。

 近づくにつれて、私にとっては遠き過去の二つの出来事を思い出していた。
一つは中学2年か3年の時、本城中学校と対戦相手は憶えていないが野球の試合が
当、鳴海球場で行われ、仲良しのA君が出場するので応援に来た事である。
そしてA君は3塁打を打ち拍手をした直後、今度は投手の牽制球でアウトになって
大変残念な思いをした記憶である。

二つ目は社会人になった私は、先のことを考えて23歳で運転免許証を取得する事になり
当時、自動車教習所に様変わりした当所で、自信を持って臨んだ本試験の車庫入れで
砂場に後輪を落として失敗したことであった。
現在でも記憶という小さな引き出しの中に残っている・・・

 少し先の三皿の交差点を右折し、丹下砦跡地を目指すと街道沿いに石造りの
常夜灯があった。
案内板には、鳴海宿西の入口丹下町に建てられた常夜灯であり、寛政四年(1792)
      篤志家の寄進により設置されたものであると・・・
      当時、旅人の目印や、宿場内の人々及び伝馬衆の安全と火災、厄除けなどを
      秋葉神社に祈願した火防神として、大切な存在であったと。・・・

 目的地の残り光明寺と丹下砦跡地を目指して、常夜灯から東へ200m位い入ると
左側に光明寺があった。光明寺は室町時代初期の建立といわれ、弘治2年(1556)に
現在の地に移転されたという。当時、寺の門前は鳴海潟の海辺であったと・・・

 寺門の両側には珍しく大きな木彫りの像があり、右には風神像が、左には雷神像が
魔除けとしてか? 設置されていた。
境内に入ると古い建物の寺院を予想していたが建て替えられたのか、歴史を感じない
現代風の寺社であった。・・・

?

http://

 

レンタル掲示板
/56