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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-12(1)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年 5月22日(火)13時31分21秒
返信・引用 編集済
    春風を乗せて流る天白川、その橋を渡り旧東海道を東へ・・・第二部南部編

 新瑞橋から市バスで天白川橋の先、三王山手前で下車、今回のウオーキング開始である。
先回の東部編で訪れた、千句塚公園~伝治山へ、そして赤塚、新海池を経てから
鳴海方面に向かって歩くと、右側に成海(なるみ)神社が見えてきた。

 成海神社の社伝によると(要約)
  天武天皇の御代、朱鳥元年(688)創建された。・・・神剣、草薙剣が
  熱田社(熱田神宮)に遷座された時に、当地に鎮座されたと・・・
  又、当社は祭神の一人として、日本武尊が東征に出発し、縁由によって
  祀られていると・・・

  神社名は地名からと言われ、奈良平安時代文献には、すでに成海と表記されていると。
  境内地には13,200坪の拡大な敷地を有し、熱田神宮と同様歴史と由緒ある
  神社である。
  お参りをした後に、次の目的地に向かう事に。・・・


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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-12(2)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年 5月22日(火)12時56分13秒
返信・引用 編集済
   南部編2

 南に向かって歩くと左手に名鉄自動車学校が見えてきた。当所は元鳴海球場であり
昭和2年5月工事が着手され、9月に完成して10月17日に開場式が行われたと・・・
総工費360,000円、面積12,000坪で当時の甲子園球場を凌ぐものであったようだ。
昭和11年2月9日に日本プロ野球の第一戦が巨人軍と金鯱軍(中日)との間で行われたと。
他に、各種催事に使用され、愛知の人たちに親しまれた球場であった。

 近づくにつれて、私にとっては遠き過去の二つの出来事を思い出していた。
一つは中学2年か3年の時、本城中学校と対戦相手は憶えていないが野球の試合が
当、鳴海球場で行われ、仲良しのA君が出場するので応援に来た事である。
そしてA君は3塁打を打ち拍手をした直後、今度は投手の牽制球でアウトになって
大変残念な思いをした記憶である。

二つ目は社会人になった私は、先のことを考えて23歳で運転免許証を取得する事になり
当時、自動車教習所に様変わりした当所で、自信を持って臨んだ本試験の車庫入れで
砂場に後輪を落として失敗したことであった。
現在でも記憶という小さな引き出しの中に残っている・・・

 少し先の三皿の交差点を右折し、丹下砦跡地を目指すと街道沿いに石造りの
常夜灯があった。
案内板には、鳴海宿西の入口丹下町に建てられた常夜灯であり、寛政四年(1792)
      篤志家の寄進により設置されたものであると・・・
      当時、旅人の目印や、宿場内の人々及び伝馬衆の安全と火災、厄除けなどを
      秋葉神社に祈願した火防神として、大切な存在であったと。・・・

 目的地の残り光明寺と丹下砦跡地を目指して、常夜灯から東へ200m位い入ると
左側に光明寺があった。光明寺は室町時代初期の建立といわれ、弘治2年(1556)に
現在の地に移転されたという。当時、寺の門前は鳴海潟の海辺であったと・・・

 寺門の両側には珍しく大きな木彫りの像があり、右には風神像が、左には雷神像が
魔除けとしてか? 設置されていた。
境内に入ると古い建物の寺院を予想していたが建て替えられたのか、歴史を感じない
現代風の寺社であった。・・・

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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-12(3)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年 5月22日(火)11時49分14秒
返信・引用 編集済
  南部編3
 最後の目的地である丹下砦跡地へと歩みを進め、光明寺近くを探したが分らず
道行く人に尋ねると知らないと。三人目の女性がスマホで確認して近くに表示されていると。
近くで小屋を修理中の年配者に尋ねると、80年住んでいるが知らないと。

 彼は光明寺の和尚と懇意にしているので今度聞いてみると・・・
跡地と思われる周辺には家が建ち並び、古き歴史共々人々に伝承される事なく
埋もれてしまったのか? 結局、探し当る事なく断念する事になった。・・・

 帰路、今回も浦里二丁目交差点東寄り、同級生の奥さんが営む純喫茶青山さんで
コーヒと空腹を満たす気遣いのトーストを頂き、疲れを癒すことになった。
このお店は大変モダンな造りで、特に室内は独特な雰囲気を持った装いであり
映画のロケにも使われ、又雑誌等にも掲載される程のお店である。

 丁度、私が立ち寄った日に、雑誌を見たご夫婦の方が東京から車で来店し、
独特の雰囲気を味わい記念記帳をされて帰られたと・・・

 私が感心したのは、同級生が昭和46年お店をオープンしたその時代に、一般的な
内装、デザインでなく当時の世相を越えての着想(発想)で純喫茶として創り上げた
事である。同級生として尊敬する人である。

 私も同級生の仲間4~5人で時々訪れている素敵なお店でもある。・・・
今回も、古き歴史を知見し、思い出の地を訪ね懐かしむウオーキングであった。


    次回は旧東海道、鳴海(宿)周辺をウオーキングして見る事に・・・
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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-11(1)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年 4月29日(日)20時52分23秒
返信・引用 編集済
   春風を乗せて流る天白川、その橋を渡り旧東海道を東へ:第一部東部編

    
誰もが知っている、歌っていた唱歌『ふるさと
      ♪ うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川
          夢は 今も めぐりて 忘れがたき ふるさと


 子供の頃、私達共通の「ふるさと」と言えば天白川であり、橋周辺であろう・・・

 現在の天白川橋はコンクリート造りであるが、その欄干の東端には昭和50年3月
竣工と記された名板があり、40年を超えて尚確たる橋の姿となっているが、
子供の頃には木橋であり、更にその遠く昔にはどんな橋、姿であったのか?
架橋年代 その変遷が気になり、今回のウオーキングに当り知るべく調べて見ると・・・

 慶長(1596)以降も天白川には橋も堤もなく、流れを渉ったと。
その後土橋を経て後年、仮橋程度が設置された様だ・・・
後に東海道の往還公儀橋として、流失や腐朽の折りには尾張藩より架け替えが
行われたと。

 江戸時代末期には橋の長さ 29間、横幅 3間で当時の板橋は反り橋であり
その後明治13年11月の架け替えの際、長形に改めたと・・・

 子供の頃見た、触れた、渡った木橋は果たして何代目の木橋であったのか?
当時の天白川橋の姿を心に残しながらウオーキングを開始する事に・・・

 橋から東へ400m近く下る間は、かって松並木があり、下りきった所が三王山
交差点である。
斜め左に入ると東海道で先は鳴海(宿)方面に向けて続く曲がりくねった道路である。
                            東部編2へ

 

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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-11(2)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年 4月29日(日)20時15分39秒
返信・引用 編集済
  東部編2

 上がり坂の左手に鉾ノ木貝塚の明示があり案内板には
  ◇縄文時代の貝塚で、貝塚下部から肉厚や肉薄の土器が、上部貝塚から
   平底の深鉢型土器を主体として出土し、鉢ノ木式と呼称されていると。

 そのすぐ東側小高い所が千句塚公園(三王山)であり、南端に所在する
千鳥塚が松尾芭蕉が鳴海の地に幾度か足を留め歌仙が開かれ、貞享4年(1687)
  ・11月7日  『星崎の 闇を見るとや 啼く千鳥』と発句
  ・11月17日 『笠寺や もらぬ岩屋も 春の雨』と発句
   (笠寺小学校の校歌の一部に)

 碑には芭蕉の直筆で千鳥塚に刻まれ、芭蕉が生前に建立された唯一のものとの事・・・
公園の下り坂には桜花が散り果て、中春を引き継ぐ「ゆきやなぎ」が白い花を
咲かせていた。

東部編3へ

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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-11(3)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2018年 4月29日(日)18時30分55秒
返信・引用 編集済
    東部編3

少し旧東海道を外れ東へ歩き、伝治山交差点に着いた。

 当地は織田信長と鳴海城主、山口親子との赤塚の合戦が行われた場所である。
 「父親信秀の葬儀の時、うつけの格好で抹香をつかんで仏前になげかけて
  帰った姿を見た山口親子が信長を見限り、今川方に寝返った為に、当時
  18歳っであった信長が800名の手勢と共に鳴海に向けて出陣し、三王山に
  陣取り、赤塚で戦が始まり大乱戦となったが勝敗はつかず、引き分けで終了したと
  ・・・信長のデビュー戦」

 次の目的地は、当地に存在する古墳跡地であったが、探しても見つからず、近くの
不動産屋さんで聞く事に・・・教えて呉れた場所は二つの古墳があった。

  ◇大塚古墳跡地の案内板には(要約)
   ・7世紀頃の円墳で規模は直径20m 高さ3mであり、横穴式石室は
    側壁だけの状態で、人骨などが出土したと。

現在は土を入れて修復されていると・・・狭い間道を入って探したが見つける事が出来ず。

  ◇次の赤塚古墳跡地の案内板には(要約)
   ・この古墳は江戸時代(1804~8)に発掘されたが、昭和5年 耕地管理に
    際し、再び調査されて、人骨や金環・銀環・土製の玉・ヤジリ等出土し
    古墳時代後期に属するとの事であった。
    現在は跡地を示す石材で囲われ何れも民家の庭先の中に・・・

 夏日の昼下り、水分補給をしながら新海池に向けて歩を進める事に。
新海池は寛永11年(1634)に造られた池であり、鳴海村の雨池用水として整備され
池名は新海五平治の名にちなむと・・・

 この池には子供の頃、友達と魚釣りに来た記憶があり、今回は60数年振りに
終の人生を過ごしている時に訪れる事になったが、当時は人家も少なく田畑ばかりの
風景をおもいだしながら歩く事に・・・
だが現在は池の周りには家が立ち並び、景色が大きく様変りをしていた。

 同年配の人であろうか?一人の方が魚釣りをしており、その竿先の水面には桜花の
散り遅れた花ビラが風に吹かれて舞い落ちていた。
機会を見つけて、一度魚釣りに来たいと思いながら立ち去る事に・・・

 次の目的地を目指したが少し疲れを感じたので今回はこの地までと判断・・・
帰路として、浦里二丁目のバス停へ向けて歩く事にした。バス停の東寄りに
本城中学校の同級生の奥さんが営む喫茶店があり、休息がてらお茶を飲む事に・・・
この喫茶店については、次の機会(第二部)で紹介する事にしよう。
今回はここまで・・・
               〈次回南部編へ続く〉



   

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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-10(1)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2017年12月17日(日)15時29分15秒
返信・引用 編集済
      本年、最後の投稿となります。
  同級生のみなさんに、お読み頂きありがとうございます。


東海道宮宿『七里の渡し場』を経て、桑名宿『七里の渡し』を訪れる
 前回、熱田宮宿『七里の渡し場』へウオーキングした際に思い描いた
十返舎一九作、東海道中膝栗毛の主人公、弥次さん喜多さんも、ここから船に乗り
海路を経て、桑名宿『七里の渡し着場』へ辿り着いたであろうと・・・

 晩秋の晴れた日に海路ではなく、陸路でもなく鉄路?で訪れる事になった。
地下鉄で名古屋駅へ、そして近鉄電車に乗り継ぎ桑名駅へ・・・

ここからこうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これの開始である・・・
 先ず、駅前の観光案内所で目的とする、七里の渡し場周辺のロードマップを得て
順路を決めて出発する事に。案内所の女性から、歩いて行くには距離がありますよ・・・
と言われたが名所、旧跡、その他街並みを観ながらウオーキングする事に。・・・

 街の中心、八間通りを東へ進むと、歩道上に七里の渡しを模した絵が路面に現れ、
楽しみが湧いてくる事に・・・そして右手に春日神社があり、お参りをして、
次の九華公園へ・・・
揖斐川の清らかな水を引き入れている大きな池には、白い鳥が戯れ水面には晩秋に
彩られた紅黄樹が映し出されていた。

 画像はクリックして下さい(拡大します)

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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-10(2)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2017年12月17日(日)14時50分34秒
返信・引用 編集済
   隣接地は桑名城址であり、慶長6年(1601年)に桑名藩主になった
本田忠勝のもとで城下町への整備が始まり、「東海道の名城」と呼ばれていた。
明治維新で新政府軍によって焼かれ、又戦火や伊勢湾台風等により、今は往時の
面影は残されていないと。・・・

 次の目的地へ向う為、公園内の落葉を清掃していた同年輩の方に道を尋ねると
わざわざ公園の出入口まで案内頂き教えて呉れた。ボランティアの方ですかと問うと
城址公園の管理人さんであった。失礼を詫び、お礼を言って次なる目的地へ・・・

 揖斐川の河口方面へ進むと、二層の小さな城が見えてきた。再現された蟠龍櫓
(ばんりゅうやぐら)であり、かっては河口周辺を見守る櫓であったと。・・・

 さらに河口沿いに上流へ、目指す『七里の渡し着場』に着いた。熱田宮宿から
海路七里、42番目の宿場町として栄え、当地の大鳥居は、これより伊勢路に入る為、
伊勢国一の鳥居と称されていたと・・・渡し場は想像していたよりも小さな渡し場であった。
あの伊勢湾台風で水害を受け、後に護岸工事がされて河口への開口部があるのみであった。

 写真を撮っていると小学校高学年の女子生徒達が引率の先生と一緒に現れた。
どうも郊外授業であり、近くの女性から渡し場の歴史と大鳥居について説明を受け始め、
私も生徒さんに断り、一緒に聞き学ぶ事になった。

 伊勢神宮の式年遷宮時、社殿で使用された柱は、20年後に神宮の入口にある大鳥居に
使われ、更に20年後の式年遷宮で今度は、桑名宿、七里の渡しの大鳥居として移され
その役目を終えるとの事であった。更に更に、その後民家の表札の素材として活かされる
事に、・・・

 又、当地の常夜灯は石造りであり、刻み込まれた文字も風雨にさらされ、歴史を感じる
姿であった。

 次に住吉神社へ向った。かって船溜りの近くにあり、その後揖斐川の護岸改修により
現在地に移転されたと。・・・その右手前方には長良川河口堰があった。

 その後の目的地、諸戸氏庭園と六華苑を訪れる事に・・・
諸戸氏庭園は100年に一度の修復工事中の為か、入口は戦火で焼け残った3棟のレンガ
造りの倉庫(元米倉)であり、小さな置き看板が入口で案内していた。
入場料を支払い掲示してある初代諸戸清六氏の写真と・・・資料を読んでいると、受付にいた
同年配の女性が話しかけてきた。
『父親が当時事業に失敗し、一千両の借金を残したが長男の清六さんが米相場で大儲けし
返済、次に林業でも大成功したと・・・そして鈴鹿~伊勢までの山々を買い入れ、日本一の
大地主になった人だと話してくれた』・・・展示品の古民具等を足早にみて庭園に入った。

 庭園は1854年(明治17年)に豪商から、初代諸戸氏が譲り受け、初代、2代と
手を加えられて現在に至っていると。明治時代の面影をそのまま残す、重要文化財指定の
建築物は修復工事の最中であった。

 隣接の六華苑へ歩を進めた。桑名の実業家、2代目の諸戸清六氏が大正2年に和洋館を
竣工し、特に洋館部分は、大正時代を代表する建物で現在、国の重要文化財に指定と。・・・
洋館内には当初から、床がタイル張りされた様式の水洗トイレがあり、又室内の備品等は
全て当時に輸入され、現存していた。

 見学後ロビーで庭先の紅葉を見ながら、お抹茶を頂き一休みして、桑名に在住する
同級生に電話、久し振りであったが懐かしい声を聞いた後・・・
桑名駅に戻る事に、・・・駅に着いた時には、もう陽が落ちていた。・・・
そして自宅に帰着
今回は(17500歩、10.5Km,590カロリー消費)疲れを感じたウオーキングであった。

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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-10(3)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2017年12月17日(日)13時40分43秒
返信・引用
  追加写真 3枚
桑名七里の渡し場(浮世絵)と古地図 熱田~桑名
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こうちゃんのウオーキング(路)あれ・・これP-9(1)

 投稿者:金林浩吉  投稿日:2017年10月28日(土)16時12分39秒
返信・引用 編集済
   旧東海道の名残を探しに西へ、熱田宮宿「七里の渡し場」へ・・・

 旧東海道の呼続、山崎の長坂と言われた坂を下りきった所に山崎川があり
かっては渡船着場があり、呼続~熱田宮宿を船でも往来していた所をスタート・・・
その山崎橋を渡るとすぐ左側に、往来する人々の様、姿の変わりようを見てきたであろう
小さな古い神社があり、ゆるやかな下り坂のその先で1号線に合流している。

 ここから熱田宮宿に向けて、八町畷(なわて)といわれ両側には家もなく松並木だけの
寂しい道であったと・・・又、一号線交差点手前左側には、明治元年(1868)
明治天皇が初めて稲穂の収穫をご覧になった所があったと・・・(現在は国道とビルの中)
近くの神社に『明治天皇覧積之所』の碑がある・・・

 歩道橋を渡り側道の歩道沿いに、あの懐かしい二宮金次郎の石像があり所どころ
苔むしているような?台座上の姿であり、過ごした歳の流れを感じさせていた。
なぜこの場所に?・・・遠き昔、子供の頃、笠寺学区内のどこかで見た記憶が・・・思い出せずに
その場を離れ先に進むと一号線と合流するする場所に・・・

 その先はJR東海道線を跨ぐ陸橋があり、私は南の側道を通り踏切を越えると、今度は
新堀川の熱田橋に辿り着いた。橋の袂(たもと)のお茶屋さんで「七里の渡し」への
道を尋ね先へ・・・

 名鉄常滑線ガード横の、大きな木の下に熱田宮宿の案内があり
  『水と、緑と歴史のまち、宮地区』と題して(詳細省略)
 堀川の水、熱田の緑、東海道四十一番目の宮宿として当時の役割と歴史等の紹介が・・・

 更に歩を進めると、かっての熱田社、門前町の名残であろう商店街の街路灯支柱に
旧東海道と記された看板があり、また歩道上には松並木を模した東海道や弥次さん喜多さんを
絵にした表示等が、路面の一部に現れた。・・・

     (2)に続く
 画像はクリックして下さい(拡大します)

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